ヒカルの碁の影響で囲碁部を作って全国大会に行った話 その5(終わり)

囲碁同好会の最初の大会はパッとしない成績で終わったが、活動が認められて12月頃には部に昇格した。
初めて県大会を突破したのは2年生の秋の大会だった。
秋の大会では全国ではなく関東大会が行われるので、宇都宮で初めての関東大会に参加した。
その時の棋力は2、3段ぐらいだった。
囲碁を始めて1年ぐらいで初段になれば向いていると言われるようなので、僕は向いている部類だったのかもしれない。

関東大会には団体戦で参加したのだが、個人戦にもなぜか参加できた。
その時にあたった、囲碁部の名門藤村女子の5段ぐらいの人に簡単に負かされてしまった。
それが悔しかったので、藤村女子と練習試合を組んで欲しいと顧問に依頼し、実施することになった。
藤村女子は吉祥寺にあり、普段あまり東京に行く機会がない僕はワクワクしていた。
さらに、高専は1学年200人ぐらいで、その中で女子は10人ぐらいという状況だったので、初めて行く女子高ということにも胸が高鳴った。
対局は惨敗だったが。
名門にもかかわらず、ポッと出の囲碁部と練習試合を組んでくれたことに未だに感謝している。
当時のことは記憶以外に残っているものがない。
スマホはなくとも携帯はあったのだから、記念に写真ぐらい残しておけばよかった。

全国大会に出場できることが決まったのは、その半年後の県大会である。
棋力は3段ぐらいだった。
決勝戦は千葉高校。
大将戦はほぼ勝ちが決まっていて、三将戦は勝つのが少し厳しい相手だったため、勝負は副将の僕にゆだねられていた。
序盤はものすごく劣勢だった。
ヒカルの碁でいえば、北斗杯の中国戦のヒカルのような感じである。
しかし、終局して数えてみると、半目勝っていた。
お互いの顧問、大将が「ほんとに?」と驚きながら何度も数えていたのを覚えている。

残念ながらグループ抜けはできなかったが、その後の週刊碁で当時高校生だった下坂美織プロが二連覇を達成した、という大きい記事の隅っこに、高専で初めて全国大会に出場したということで写真付きで掲載された。

以上が囲碁部を作って全国大会に出場するまでの話である。
囲碁はそれから15年ぐらいほとんどやってこなかったのだが、最近また勉強をし始めた。
そんな中、高専時代の事を思い出し懐かしくなって、F君とまた対局したいと、久々に連絡を取った。

15年以上連絡を取ってなかったが、「一局打ってくれないか」とメッセージを送ると、「もちろんいいよ」と返ってきた。
今度ダイヤモンド囲碁サロンで久しぶりに一局打つことになっている。
高校時代に囲碁を始めて、F君に互先で勝つことが一つの目標だった。
高校3年間でそれは叶わなかったし、今もおそらく勝てないと思うが、あの時よりも強くなったと言ってもらえるような一局を打ちたいと思う。

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